東北関東大震災の被災地ルポ
文責:山本敬介

2011.4.10-11(福島〜宮城〜
岩手)

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1. 9日に東京でSFJの理事会があり、翌10日朝5時すぎには宿を出て、JRで北を目指しました。JRは栃木県黒磯でストップしています。レンタカーを借りて、北へ。幸い東北自動車道は3日前の大きな地震から復旧していました。福島周辺の状況を確認するため、市内に入りました。市内は落ち着いた様子ですが、やはりみなさんマスクをしており、ラジオからは放射線量の情報が流れていました。今は原発の早期収束を祈るしかありません。
2. 仙台に近づくにつれて、損壊の大きな建物が目立つようになってきました。3日前の地震は震災のときの地震よりも揺れが激しかったとも聞きました。市内から海岸側の道へ進み、仙台空港の周辺へ。途端に畑を埋め尽くす瓦礫が眼前に現れました。畑の真ん中には船もあります。海岸からは随分と離れているのに、です。
3. しばらく走っていると高い堤防が現れました。「名取川」と書いてあります。川を逆流した津波があふれて、次々に家やビニールハウスを飲み込んでいったショッキングな映像が記憶に新しい「名取川」です。しかし車が堤防を登りきるとそこにあった風景に驚きました。河川敷には静かな畑が広がっており、農家の方が数人農作業をしておられました。「ああ良かった」心底思いました。もちろんこの下流は悲惨な状況です。でもそこには希望がありました。

4.

仙台から塩竈市、松島を越えて、一番被害が大きかったと言われている南三陸町の志津川へ。報道で見ていた通り、そこは見渡す限りの廃墟でした。海近くの志津川病院は4階の窓ガラスが割れていました。この日は朝から晴天で、きれいな青空が広がっています。海も穏やかで夕焼けがきれいでした。ここで1万人(*)近くの方が亡くなられました。しかし、不思議と恐ろしさは感じませんでした。津波を起こした海は今は静かです。恵みをもたらしてくれた海は今もそこにありました。
5. 海に面した大きなマンションも「津波非難ビル」と表示されているのですが、4階まで窓ガラスが割れ、3階には木材が突き刺さっています。ふと耳を澄ますとかすかに歌のようなものが聞こえてきます。近づいていくと、ひとりの女性がそのマンションの廊下を歩きながら歌を歌っていました。歌は夕日に染まる静かな海に響いていました。この女性はどんな気持ちで歌を歌っていたのか。人は絶望の淵にいても歌うことができるのでしょうか。
6. 南三陸町から海岸線を北上します。行けども行けども集落は瓦礫同然になっていました。そのうちに、日没を迎え気仙沼に入りました。遅くなってしまったので、菅原さんを訪ねるのは翌日にして、復旧したばかりの45号線を行ける所まで北上することにしました。瓦礫の道を運良く通り抜け、120km先の岩泉町に到着したのは深夜でした。道の駅に留めた車で眠り、朝起きると早朝にもかかわらず道の駅の駐車場は、救援物資や仮設住宅の材料を積んだトラックでいっぱいでした。自衛隊の方も近くに野営しています。
7. つい2ヶ月前にフレンズのみんなでお邪魔した岩泉にこんな形で再訪する事になるとは思いもよりませんでした。想像していたのと違い少し内陸にある岩泉の町はほとんど被害を受けていませんでした。(海岸部の小本地区で5人の方が亡くなられました)スローフード岩手のメンバー工藤リセさんのお店に暖簾が出ていたので、立ち寄り、フレンズやしむかっぷのみんなで作ったタッチウッドを手渡しました。木のくぼみをさすって「いいねぇいいねぇ」と何度もおっしゃってくださいました。事前に連絡してご迷惑をかけてもいけないと、塚原さんと茂木さんを突然お訪ねしました。塚原さんは「今の復興ムードに心がついていかない」とおっしゃいました。「ゆっくりとした心に寄り添う支援」が必要だと感じました。
8. 茂木さんは打ち合わせで外出されており、お会いできませんでしたが、タッチウッドを託して岩泉を後にしました。ここから昨夜暗闇の中を走った45号線を今度は気仙沼に向けて南下していきます。田老町、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、陸前高田市…。4時間走る間、ほとんどの集落が津波の被害で同じような惨状でした。海から川沿いにゆるやかに集落が広がっているような地形の集落は、特に被害がひどいようです。写真は山田町のバイパスから見下ろしたようすです。言葉が出ません。

9.

津波による被害を受けている海沿いの集落は壊滅的でも、それ以外の山がちなところは、ほとんど被害を受けていません。海を見下ろす畑では、おばあさんが畑仕事をしていました。傍らでは梅の花がほころび始めていました。テレビの映像では壊滅的な場面ばかり報道されているので、東北がすべてダメになってしまったような錯覚に陥りがちですが、普通の暮らしはしっかりとありました。

10. この日は月曜日だったので、何度も小学生や中学生の姿を目にする事が出来ました。心に大きな傷を負っているだろう子どもたちが、友だちと通学中にかわす普通の笑顔に心を癒され、涙が出ました。釜石のグラウンドではサッカーボールを追う中学生の姿がありました。
11. 比較的大きな町では自衛隊の方を中心に少しずつ瓦礫の片づけが進んできているようでしたが、小さな集落は手付かずのところがほとんどでした。震災からちょうど1ヶ月のこの日でも、釜石市唐丹はついさっき津波が来たような状況でした。車には中で亡くなっていた方がいたことを示す「×」マークが赤のスプレーで書かれていました。
12. 陸前高田も大きな被害に見舞われました。見渡す限り廃墟が広がっていました。田んぼには昨年刈り取られた稲の茎が残っており、そこには海水が溜まっていました。塩害でしばらくは田んぼも使えないだろうと聞きました。すべてが0からのスタート、いえ、スタート地点に立つまでに、まずは更地にしなければなりませんし、気持ちを整理する時間も必要です。私たちもやさしく長い支援をしていかなければなりません。
13. 気仙沼の街に入る少し前に、「男山醸造用水・荒神井戸」の小さな看板がありました。どうやらこのあたりに男山の井戸があるようです。車を止めてあぜ道を歩いていくと、小さな農家さんがありました。畑はきれいに耕され、庭につながれた白い犬が尻尾を振りながら、しゃがれた声で吼えていました。

14.

この先に井戸があるのかと進むと、農作業をしていた女性が声をかけてくださいました。親戚や知り合いで亡くなられた方もいるというこの女性は、「何だかここは被害がなくて悪いように思うのだけれど、じっとしていてもしょうがないので畑仕事をしている」とおっしゃいました。私は「きっと被害を受けられた方々も、こんな畑を見たら喜ばれると思いますよ」と話しました。井戸の場所は分からずじまいでした。
15. 気仙沼の街に入りました。昨夜は暗くて見えませんでしたが、津波と火災でまさに焦土と化していました。このあたりは港に近い、食品加工場などが多数あった場所だということです。津波は重油と一緒に押し寄せ、市外の対岸にある地区は火災に見舞われました。震災の夜、真っ暗な中燃え盛る気仙沼の映像に衝撃を受けた方も多いでしょう。
16. スローフード気仙沼の菅原昭彦リーダーの経営する「男山酒造」の本社事務所があった市街周辺は一階部分が軒並み津波でやられており、多くが倒壊していました。この地区にはもちろん電気も通っておらず、前日夜に通ったときには、ヘッドライトに照らし出された街がとても恐ろしく感じられました。一ヶ月前まではたくさんの人が行きかっていた街が一瞬で失われたのです。
17. 2007年のスローフード全国大会開催の折に訪ねた「男山酒造」の酒蔵は、市街よりほんの少し高台にあったので、津波の被害はすんでのところで免れました。しかし、停電やライフラインの寸断で酒造りを続けるのは難しいと一度はあきらめたのですが、「こんな時だからこそ気仙沼のお酒を」との支援の声が上がり、仕込みを再開。井戸水でタンクを冷やし、発電機で機械を動かしてもろみを搾り、1升瓶320本分の新酒が3月末に完成しました。
18. 工場の2階事務所に菅原さんを訪ねました。2月19日に八戸でお会いしてから、わずかしか経っていませんが、もう随分と昔のように感じられました。菅原さんは震災後すぐから、気仙沼復興のシンボルとして1ヶ月頑張ってこられました。しかし、これからとても長い時間が必要ですし、復興に菅原さんは欠かせない人物です。どうかどうか、無理をしてでも体と心を休めてください。最後に心配されているみなさんのために写真を1枚お願いしました。美しい気仙沼の写真の前でとおっしゃって…。きっと気仙沼はまたこの美しい街に生まれ変わると思います。

19.

男山酒造の玄関を出た瞬間に、気仙沼の街にサイレンが鳴り響きました。2時46分。震災からちょうど一ヶ月が経ったのです。その場で黙祷をして、亡くなられた方々へ祈りを捧げました。気仙沼から仙台へ向かう途中のコンビにはごらんの通りでした。少しずつ食料や流通事情は整ってきてはいますが、まだまだ不安定です。このあと仙台に少しだけ立ち寄って、東北自動車道を南下し、黒磯に着いたのは22時を廻っていました。
20. 翌日、JRで東京へ戻り、羽田から北海道へ帰りました。この日の東京は快晴で桜が怖いくらいに満開でした。羽田空港のロビーで飛行機を待っている間、東北で見てきた光景と、今目の前にあるまったく普通の景色とがうまく重なりませんでした。どちらも現実のものでないように思いました。また、仙台や福島ではパチンコ屋さんが煌々と明かりをつけて営業しており、駐車場が満車状態だったのも気になりました。やはり何かがおかしい。


東北関東大震災で被災された地域を訪ねて

東北関東大震災と津波で亡くなられた多くの方、そして被害を受けられたみなさまに心からお見舞い申しあげます。震災から1ヶ月以上経った4月13日現在でも福島第1原子力発電所の収束は見えていません。昨日、事故のレベルがチェルノブイリと同じ最悪の7に引き上げられました。放射能の環境への放出は現状ではチェルノブイリの10分の1程度といわれていますが、これからも引き続き放出が続きそうです。私たちは現場で作業している方々の無事を祈りながら、情報を注意して集め、自己防衛するしかありません。

人口が集中している都会のために、原子力発電で電力を作り送る、食料も同じように都会のために地方で生産されています。環境中のエネルギーは広い日本列島に分散されて存在しています。これらを効率よく使用して循環型の社会を作っていくためには、都市と地方の再編集が必要だと強く思います。人口1200人の村で暮らしている私は、この地にあるエネルギーをしっかりと使うためにももう少し若い方がいてほしいと願っていますし、都市で暮らしている人も地方での社会的役割が大きい暮らしは充実感があるのではないでしょうか。この震災そして原発事故を機に、我々は本気で考えて行動していくべきだと思うのです。

津波で被害を受けた廃墟の街に、私は不思議と希望を見ました。そこには、あいかわらず豊かな海が広がっていたからです。海の豊かさと津波は実は同じものです。きっと海と共に暮らしてきた人たちは、新しい関係を海と結んで生きていくでしょう。それに疑いはありません。しかし見えない放射能と共に暮らすことは不可能です。放射能の環境放出のほうが、刺激的な映像はありませんが遥かに重要なことなのです。メディアは津波の恐ろしさを繰り返し見せるのではなく、原発の本当の恐ろしさを追ってほしいと思います。

大好きな東北をこれからもたびたび訪ねようと思っています。支援だけではなく、楽しみとして。

2011年4月13日 山本敬介


*南三陸町は当初1万人の安否不明と発表していましたが、その後詳細が分かり、2011年6月22日現在で判明した人的被害は死者542人・行方不明者664人。


 
撮影:山本敬介 ※写真の無断使用は固く禁じます。
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