リポート『今を知り、これからを語り合う』 ※共催イベント

日   時:2012年5月11日
場   所:札幌エルプラザ2階 環境研修室
司   会:今宮廉(プロデューサー)
呼びかけ人:荒川義人(天使大学教授)/今宮廉(プロデューサー)/湯浅優子(スローフード・フレンズ北海道代表)/すずきもも(スローフード・フレンズ北海道事務局)

 震災発生から1年2カ月目のこの日、「子どもの未来と、食を守るネットワーク」の主催で『今を知り、これからを語り合う』が行われました。札幌エルプラザ2階の環境研修室には道内各地から30名を超える方々が集まりました。
第一部では、震災を機に福島から北海道に避難した2人の青年と、避難者支援活動を続けるみかみめぐるさんの3名をゲストとして迎え、震災発生から今日までのことと、これからのことをお話しいただきました。
第二部では、会場に集まった参加者を交え、トークセッションが行われました。
震災から1年を経た今、わたしたちに何ができるのか。それぞれの想いが語られました。

<第一部>

■呼びかけ人・湯浅優子(スローフード・フレンズ北海道代表)挨拶

 「子どもの食と、未来を守るネットワーク」が立ち上がったのは今からちょうど1年前。2011年5月16日に第1回の集まりが開かれました。
3月11日に起きた震災と原発事故は、(北海道に住む私たちにとって)決してどこか遠く離れた場所で起きたできごとではなく、私たちにとっても身近で、日々をとても不安に思い、なにかいたたまれない気持ちを一様に抱きました。
それをどう言葉に出していいのかわからない、だけどこの想いを誰かと語り合いたい、そして今起こっていることを誰かに伝えたい。そうした切実な想いを持ってこのネットワークが立ち上がりました。
1年を振り返り、今、日本の中で何が変わり、また変わってはいないのか。
そして私たちはこれからをどう生きたらいいのか。
改めてそれを見つめてみようという、そんな集まりです。
台本はありません。自分の想いを伝え合いたいという、その気持ちが、こうして皆さんを結びつけました。
1年間たいへんお世話になった人たちと、その中で出会った福島の青年ふたり。そして、彼らを支える立場で活躍されている「むすびば」の方と、まずはそのお三方から話を聞き、そして今日いらした皆さんにそれぞれの想いを語り合い、次につなげていけたらいいなあと思っています。

■トーク(1) 菅野義樹さん

 先日(5月5日)、泊原発が止まり、日本の原発がすべて停止したということで、僕のところに取材がきました。記者の方から「1年たってどんな気持ちですか?」と聞かれましたが、「僕の中ではまったく変わっていない」とお答えしました。それが今の心境です。

僕が住んでいた飯舘村は南相馬市と福島市にはさまれた、標高400~600mくらい、人口6000人の小さな村です。福島第一原発からは北西30〜45kmに位置しています。
僕の家は飯舘村で18代続く専業農家(菅野さんは18代目)で、地元の牧草を使って、なるべく自給的な畜産経営を両親と一緒に営んできました。
そんな中で、放射能がふってきました。
僕が住んでいたのは飯舘村の南の方で、「居住制限区域」か「帰還困難区域」か、そのどちらかに入るのかなという場所にあります。現在、家の周囲では(放射線量が)6~7μSv/時ぐらいあるでしょう。
(スライドを見ながら)飯舘村はこんなふうにとても美しい町で、紅葉もきれいで、この写真の奥の方が太平洋側であり福島第一原発があるんですけども、そこから放射能が降ってきました。
飯舘村は原発の交付金をもらわずに、市町村合併を住民投票で否決して、自分たちの村を作っていくんだと決めました。
「までい」という言葉があります。東北弁で、「丁寧に、ゆっくりと、両手を携えて丁寧なくらしを」という意味です。飯舘村では「ないものねだり」じゃなく「あるものさがし」をしようと、農的な生き方の中から価値を見いだそうと、そういう村づくりをしてきました。
ところが、そういう暮らしも原発の事故があったためにすべてダメになりました。

(スライドを見ながら)これは僕の家の裏庭です。右側の盛り土をしてあるのは、父がトラクターで表土を剥いで、内部被爆対策をしていたようです。
計画避難後、僕がここに戻ってくると牛はいなくて、「あぁ、僕はここでは牛飼いができないんだ」ということを強く認識しました。

大手メディア(新聞・テレビ)が、飯舘村の「分断と対立」という構造を作っています。
飯舘村では住民同士の対立が進んでしまい、対話というかたちにはなかなかなりません。おじいちゃん世代は「もちろん残りたい」と言いますし、僕たち世代は「子供がいるから」戻れません。国は小出しに補償をつけてきますので、その都度、住民は翻弄されているという状況です。

僕には子どもがいます。昨年、妻が避難先の茨城で、自然分娩で出産をしました。僕たち家族は農業を続けるために北海道に来ましたが、飯舘村を見捨てたわけではありません。どのように飯舘村を見守っていくか、そういうことを考えていきたいと思っています。
そのひとつが「つなげるつながる さくらプロジェクト」です。僕はポストカードを作って、地域に桜を植えるというプロジェクトをやっています。僕が勤めている農業法人の方々が中心となり、去年、福島の子どもたちを北海道に招いて疎開キャンプを行いました。今年は飯舘村の混乱状況も落ち着いたので、僕が積極的に飯舘村の人たちに訴えかけて保養キャンプをやりたいと思っています。さらには、若い世代に北海道の農業を見てもらい、北海道の大地を、選択肢の一つとして考えてもらえるようになればいいなと思っています。

僕には「飯舘村をあきらめない」という気持ちが強くあって、分断と対立を乗り越えるための対話プロジェクトを第三者のファシリテーターと、飯舘の若手と、スカイプで話をしながら進めています。中高年層の中で対立が深まって膠着状態がつづいていますので、なんとか次の世代、僕たちのような若手が子どもを視野に入れた中で、今後の飯舘村をどうしていくのかということを考えていけたらと思います。

北海道は農業経営の面から見てもポテンシャルの高い場所です。子供たちの保養という意味においても、日本の中ではほかにはない、非常にいい場所だと思っています。
皆様のご支援、ご指導などのアドバイスを、今後もいただければ幸いです。

Q 子供たちを飯舘から呼ぶプロジェクトを計画されているそうですが、実現可能ですか?
A 保養プロジェクトをやろうという団体は去年に比べて極端に減りました。その中で、今度は僕がそれをできたらと思っています。
教育委員会の方に相談したところ、費用的な問題さえクリアできれば人数が集まるのではないかという意見をいただきました。長沼と栗山の人たちもやりたいといってくれているので、この辺りを含めたプログラムを作りたいと考えています。

■トーク(2) 安斎伸也さん

 僕が住んでいたのは福島県福島市。ニュースで有名になった「中通り」ですね。原発からはだいたい70kmぐらい離れていて、(震災発生)当時は家族で果樹農園を営んでいました。家内がカフェを営み、母は陶器のギャラリーをやって、僕と父が果樹の世話をしていました。
菅野君とは震災の1年前ぐらいに知り合って、同い年ということもあって意気投合しました。僕にとって農家の友人というのは初めてだったんですね。それまでは地元でもおかしな農家として有名だったんで同世代の仲間はいなかったんです(笑)。
僕自身は10年ほど前に畑を始めました。オーガニックをやりたいという思いがあったんですが、なかなか実現できないこともあって、「どうやって自然農法にシフトしていこうか」と、(原発事故が起こるまでは)日々模索していました。うちでは農協などの市場通しではなくて、全量個人のお客様に送るという形で販売していたこともあり、できればオーガニックにシフトしていきたいという気持ちもあったんです。

そんなときに原発が爆発しました。3月当時で1.3μSv/時ぐらいかな、家の周りで計ったら。今でも父は福島で果樹栽培を続けてますが、僕的には「ないな」という感じです。
僕自身は震災前、六ヶ所村の問題(六カ所再処理工場の建設と相次ぐトラブル)ぐらいから、原発に興味を持ち始めて自分で調べたりしていました。福島では電力(電力会社)か公務員に就職するのが親孝行と決まっています。親戚をたどれば必ず電力の社員がいるものです。友だちの中にも電力関係がたくさんいました。だから震災前からも(東京電力・東北電力の悪口は)言えない空気みたいなのはあって、顔色をみないと話しかけられないような、そういう感じでした。 僕はその当時から、自分たちが原発に関心を持たない、そのことに問題があるんじゃないかと思っていました。
電力の友達がグリーン電力証書(再生可能エネルギーに対する助成手法の一つ。詳細はこちら)というのが始まったときに、最初は東電の社員が買い支えていたらしいんですよね。要するに電力の人もどこかで原発に対して後ろめたさを感じて暮らしていたんだなぁと思うんです。
僕も、オーガニックを理想としながらも慣行栽培をしてきて、そのギャップがつらいというか、なにをしてるんだと思いながら農業をやっていたということがありました。農薬は今すぐやめたかったし、お客さんからも「安斎さん、オーガニックじゃないんですか?」なんて言われてしまうこともありました。そうするとものすごく傷つくんです。そういうのもあったから、電力の人たちも一概に、彼らのせいじゃないなというふうに思ったりもするんです。

震災があった日は東京にいて、ちょうど家内と電話しているときに地震が来たんですね。そのあとしばらく連絡ができなくなり、僕は葉山の友人のところに避難しました。たまたまその人が原発に詳しい人で、いろんな情報が入ってくる中でこれはやばいということになった。なので、とりあえず家内に電話して「子供(6歳と3歳)を連れて今すぐ東京に来なさい」と言ったんです。「とにかく、里帰りするつもりできなよ」そんなノリで来てもらったんです。
僕はそのとき、本当にどうしたらいいのかわかりませんでした。僕は登山をやっているんですが、山登りの考え方というのはわからなかったら踏み込まないというのがセオリーなんです。そのときも同じでした。

原発がどうなるかわからないその状況下では、福島はおろか、関東にいてもいいのかどうかもわからない。じゃあ、(できるだけ離れた)九州に行こうということになってそのまま車で九州に移動しました。
僕自身は当時、日本がひっくり返るぐらいのそんな気持ちでいました。でも、途中(関西あたり)のパーキングエリアに立ち寄ると、「福島は終わったね」なんて人ごとみたいに話している声が聞こえてきました。その言葉を聞いたときに、食べ物に対する不安というのは間違いなく出るだろうと感じました。(たとえ放射能汚染の影響が少なかったとしても)これからは福島で農産物を作って販売するということは難しいだろうと。

僕には九州に知り合いはいなかったんですが、熊本にいる、友だちの友だちみたいな方を頼って避難させてもらうことができました。ただ、家族もいる中で、いつまでも避難生活というわけにはいきません。それで、自分の理想とするところでやりたいということで、じゃあ北海道にしよう、と。僕的には冬まで働くのはありえないなーっていうのがあって。こたつに入ってみかんを食べたかったので。それで、北に行こうと(笑)。

去年の4月1日に札幌に来て、土地を探していたら菅野君から電話がありました。ほんと、菅野くんには運命を感じます(笑)。
去年は(余市で)自然栽培の手伝いをしていて、現在は南9条11丁目に建物を借りて、『たべるとくらしの研究所』というのを立ち上げまして、社団法人を立ち上げて、そこでカフェと加工所を運営しています。
最近、畑を借りることができました。7年間放棄された土地で、ぐちゃぐちゃなんですけど。逆に自然栽培の状態で僕にとってはラッキーなことです。震災以降、とにかくラッキーなことばっかりで運がいいなと日々感じながら生きています。

僕がやりたいこと、やっていることというのは、実は震災前と震災後で変わったわけではないんですよね。震災前から原発のことは意識して暮らしていたし、微量放射線でも問題があると思って気にしていたぐらいなので。
今となっては日本のどこにいても汚染地帯だと思うし。みなさんには申し訳ないけれど、北海道だって汚染されていると思っています。もっといえば放射能だけじゃない汚染もあるわけです。農薬の汚染とか。ご存じの方も多いと思いますが、日本は面積あたりの農薬の投入量が世界で一番なんです。きまじめだからですね。ただ、市場に出回る農産物には農薬の投薬量は明示されないし、どこにもそれを計る機械すらない。その害すら公表していない。そういうのがたっくさんあるんですよ。

医療の問題だって、食の問題だって、もう、いたるところに原発と同じような社会構造があります。
ただ、そう考えたときにそれぞれの問題の中にひとつずつ今すぐにできる解決のファクターというか、シフトする方向性はあるんですよね。そういう選択肢が。僕はそんなに難しいことじゃないと思っていて、それを選択しないというのは自分の中でないんです。

食品の放射能汚染についていえば、報道で言われている以上に、放射能に汚染された食べ物って普通に出回っているし、混ぜられているし、薄まっているし。ほら、今あなたが飲んでいるペットボトルのお茶の中にも入っているはずなんです。それはある意味では日本の流通システムのおかげかもしれないわけですよ。
僕は(放射能汚染からは)逃れられないと思うけど、だからといって絶望している場合じゃないなぁと。子どもたちにとってみれば放射能がある世界が普通なんです。僕らの世代がデフレに慣れちゃっているように(同じにしちゃいけないのかな?)。子どもたちにとっては放射能のある世界は当たり前なんですね。そういう世の中にあって「放射能(の摂取)をゼロにしたい」、ベクレルフリーの食べ物を求めること自体が、今の状況を正しく把握していないんじゃないかなと僕は思っています。
そうした食品が流通している中で、どう暮らしていくか、どう笑顔で生きていくか、どう人生を終えていくかということの方がこれからは大事じゃないかと思うんです。

だから本当は、食に関わる仕事はしたくなかったんです。農家だし、流通のこともわかるし、うちの実家でつくったものがどういうふうに流れていくのかもわかっているつもりだし。ただ、それ(放射能に汚染された食品)がどういうふうに「ある」中で暮らしていくのか。それを考えるときにきているのではないかと思います。
逃れられないと思うんですね。放射能から。

福島県から6万人が避難しているといわれています。(福島県の人口は2012年6月現在で196万6800人だから)ほとんどの人が県内に留まることを決断しています。
彼らがよくないか。僕はそうは思いません。彼らの暮らしもあるし、彼らの価値観もある。そこで市民同士が対立しあうことがナンセンスに思えて。
一番は原発があったこと、社会システムに問題があったと思うからそのことを考えるべきなんじゃないかなと思います。震災、放射能、原発の問題って、社会システム自体に問題があることを提起しているように思えてならなくて。それって一人ひとりの日々の生活の中に、根深く入り込んでいる、そんな気がしています。

家内が(札幌の小学校の)PTA総会に参加したときの話です。
手を上げて、「みんなで食品の放射能測定器を買いませんか」という提案をしたんですね。そうしたらシーンとなっちゃったそうなんです。で、校長が「それは行政がやってることですから~」とか、まぁごもっともな意見ではあるんですが、そう言ったそうです。
福島県には今ではそこらじゅうに食品の測定器があって、誰だって気軽に計れるようになっているんですよ。それを見てヒステリックに怖がるのはよくないと思うし、大人として今どうあるのかを事実をとらえた上で、じゃあどうするかという話をしなくちゃいけないのにそれすらしないというのはなんでだろうなって。

僕は実生活の中でヒステリックになって福島産(の食品は何が何でも)買わないとかじゃなくて、もっと普通のテンションで、正しい知識として、みんなが基礎的な勉強としてやっていく必要があると思うんです。知らないから、分からないから、怖いわけであって。
でも、それは決っして放射能を受け入れるとか、そういう話ではなくて原発を容認するというのとはまったく違う。それは別の次元の話です。
爆発してしまったことは事実。だから、その中でどう暮らしていくか、これからどうやって生きていくかを考えることが大事なんだと思います。

Q 安斎さんが以前、福島県産の農産物をベクレル表示して販売したことがあると聞いたことがあります。そのときの反応はどうだったんですか?
A 去年の夏から、(食品の放射能汚染を)隠すのはいやだったので、知ってもらった上で買ってもらおうと思ってあえてベクレル数を表示して販売したんです。「子どもには食べさせないで」と張り紙をしながら(笑)。…でも、反応は冷ややかでしたね。
農薬をこれぐらい使っていますと表示して野菜を売ることはないですよね。でも本当はそれもものすごく身体に悪いのにね。
判断するのは消費者だと思うんですよね。そう思ったんで、ベクレル表示をして販売して、もっと本当は普通にもっと表示してほしいし、そういうことが普通であってほしい、あとはもっと普通に知識を持ってほしいということですかね。

■トーク(3) みかみめぐるさん

 3月11日に震災が起き、被災地支援をしなくちゃいけない、そういう思いに駆られた市民たちが3月16日に集まりました。急な呼びかけにもかかわらず90人も集まったんです。話し合った結果、被災者支援の市民団体を作ろうということになりました。そして3月25日に改めて、東日本大震災市民支援ネットワーク札幌、愛称「むすびば」という名前で支援活動をスタートしました。
行政の方の英断によって、エルプラザの一角に机をご用意いただき、むすびばの窓口を開設することができました。
去年の震災というのは、肩書きとか、普段の仕事の立ち位置とか、一切関係ないぐらいのできごとだったんですね。だからここ(札幌エルプラザ)の職員さんも、普通ならありえない判断をしてくださいました。

本当に毎日、いろんな市民の方々が「何かやりたい。だけどなにをやったらいいのかわからない」といって相談にみえました。話を聞くのも同じ市民だから、なにかやりたいという思いはわかるんですね。窓口に座るボランティアの私たちは、せっかくきてくれたんだから、絶対に素手のままは帰さないぞという気持ちでいました(笑)。だから、なにかいっしょにできることはないだろうかと、何時間もかけて話し合いました。その結果「むすびば」にはいろんなチームができました。

振り返って考えると、被災者支援のあり方というのは本当にクリエイティブなんだということがよくわかります。
被災地へ支援に行くとか、こちらに被災してきた人に物資を提供するといったようなことは、当然、最初から想定できたことです。
ただ、「あなたの得意なことはなんですか?」と話し合っていくうちに、「私にはこれができます。あれができます」となって、思いがけない発想とか普段は出会うことのない人同士が話すことで面白い支援活動が生まれたりするんですね。あとからになって、私、これはすごい宝物だなぁと思いました。
札幌市というのは、人がなにかたいへんなことが起こったときにいろんなことを工夫したり、新しいものを作り上げていくことができるという土壌なんですね。こうじゃないといけないという、人の営みがあまり縛られていないんですね。もともとアイヌたちが自然の理にかなった暮らし方をしてきたこの大地に、わたしたちがおじゃましちゃって、その中でわりとのびのびやってこられたというのが、いろんなかたちですごくいいかたちで現れたなと思います。

北海道は、東北のすぐお隣だということ。そしてもともと東北からきた人が多いということもあって、震災直後から北海道に避難してくる人たちはたいへんな数になりました。1年経った今も、道内に3000人もの人たちが避難をしています。特に札幌にはその半数以上が集中しています。去年の6月~7月にかけて、福島県からの避難者がどんどん増えてきました。
札幌に避難をされている方は1600人ぐらいいらっしゃるのですが、その8割ぐらいは福島県および放射能汚染による避難者の方々です。放射能がらみで避難するご家族が増えてくる中で、特に母子避難という形で避難してくる人が増えてくる中で、暮らしのことを一緒に考えていこうということで、「くらし隊」というチームを秋ぐらいに作りました。それは避難してきた方たちが中心になって、自ら支援活動を一緒にやっていく。そういうチームなんですね。避難者と支援者の垣根がないんですね。「くらし隊」が誕生して、私も一緒に活動してみると、一気に、被災地が身近に感じられるようになりました。

そうなってくると、札幌で待っているよりも現地に行っちゃった方が早いや!ということで昨年の10月から何度も東北におじゃまするようになり、特に福島県では小さな相談会をいくつもやるようになりました。本当に小さいんですよ。知り合いのカフェの1テーブルを借りてですね。
相談内容は本当にいろいろです。学校の悩みとか、夫婦間のことだとか。いろんな相談事を受ける中から、すこしでも、今悩んでいることが解決できたら、その方がきっとおうちに帰ったら、子供たちにとってはいい影響があると思うんですね。
そういう相談会の活動をいっぱいやるようになりました。

今は、あちこちに暮らしている人たちと連携をとりながら、一緒に福島のことを話をしながら、一歩ずつ一歩ずつ進んでいるのかなという状況です。そんな中で「やっぱり避難したい」という人が出てきたら避難の道筋をつけていったり、避難まではできないんだけど何日かまとめて保養したいという相談がある場合には、保養ができるような場所を紹介したり、やり方を考えたりとか、そういう活動を少しずつやっています。

今年の春になってちょっと驚くことがありました。「くらし隊」のお母さんたちが、自分たちで小さなプロジェクトを作り出して、この4月に少しずつ動き出したんですね。あるお母さんたちは「マザーツリー」というチームを作り、食の安全だとか、学習会をスタートしました。それから、「こだまプロジェクト」というのも始まりました。普段考えていることを話し合う中で、みんなでこだましあう、気持ちが響き合うような、そういう願いを込めて始まったプロジェクトです。

震災2年目になり、日本の社会が抱えている問題、世界が抱えている問題がいっそう複雑になったような気がします。そんな中、自分たちで積極的に動かなければ何も変わらないなという気持ちを強くしています。

4月末に花巻に行ってきたんですね。気軽に保養の受け入れができるような場所はないかと思って、友人を頼って行きました。
花巻に、『ゆいっこ花巻』という団体があります。その方々とお会いして話をするうちに、東北の人間同士として、福島の子どもたちを積極的に受け入れて支援をしていこうやとみなさんおっしゃられて。あぁよかったなと思ったんです。
そのとき花巻の人たちから聞いて驚いたのは、震災から1年が経ち、花巻の人たちはもう(震災のことを)忘れかけているというんですね。同じ岩手県の沿岸部が大打撃を受けたというのに、もう「ほわっ」とした空気に包まれているというんです。
どうしてかな?と考えたときに、ある種、意図的な形で「ほわっ」とした空気が日本中を覆っちゃっているのかなと、そう思うわけです。
大船渡を車で回って見たときに、(復興するまでに)何十年かかるのだろうと絶望的な気持ちになりました。にもかかわらず、同じ県内でそんな「ほわっ」とした空気が流れていたんです。

この「ほわっ」とした空気というのは、自分の人生に対して、誰かが考えて答えを出してくれるのを待っている、みたいな。私も含めて。そういうところがあるんじゃないかなって思います。主体的に考える。そういうことをやめて、待っちゃっているのかなって。
だから今日のような、菅野君や安斎君のこういう話を聞くと、シャキっとします。
来週には花巻から来ます、福島からも来ます。そういう人たちとみなさんをつないでいきたいし、私自身も来週福島に入るんですが、行商みたいに今日のお話を持って行って、つないでいきたいし、あっちこっちで気軽に(こうした会を)設けていけたらいいですよね。

<第二部>トークセッション

敬称略。会場参加者は氏名明示せず。

湯浅
今日は多くの方にお集まりいただいておりますので、みなさん一人ひとりのお話を聞きたいところですが、会場の中でご意見のある方はいらっしゃいませんか?
会場1
私は昨年から脱原発のデモに複数回参加し、今年の5月には「脱原発を目指す北電株主の会」に入りました。2006年からソーラーシステムに取り組み、再生可能エネルギーについても実践しています。それから、スローフードということでいいますと、家庭菜園をしていまして畳十枚ほどの畑を耕しています。「レイチェル・カーソン北海道の会」に参加しておりまして、催しなどもしております。
私の息子は栃木の会社に就職し、原発から100km 離れた場所に暮らしておりました。ところがそこは放射能の通り道でした。ガイガーカウンターで近くの小学校を計測するとかなり高い値が確認されました。春休みには嫁さんと子どもが、嫁さんの実家の徳島に引っ越しました。息子はそのまま単身残って働いていたんですが、家族が離ればなれになってまでどうして働く意味があるのかと思い立ち、1月に会社を辞めて、移住を決めました。私たちの家族も、福島原発の事故でこうした被害に遭っております。
みかみ
放射能のホットスポットはかなりの広域にわたっています。あっちこっちの人が動かざるを得ない状況になっていますね。
安斎
僕の友人の中にも東京から熊本に移住した人もいます。放射能もたしかに移住のきっかけにはなっているけど、原発事故を通して生き方自体を問われている(見つめ直した)と感じていて、そういう生活をチョイスしているという人もけっこういる。僕たち自身もやはりそうだし。
会場2
私の実家も青森の農家で、安斎さんと同じようにオーガニックを志向しながらも、だけど慣行農業をやっているんですが、安斎さんがおっしゃったような、「やりたいことをやりたい自分」と「社会の中での関係性の自分」というのを、話を聞きながら、あぁ、よくわかるなって。共感しました。
それから、先日被災地にも初めて行ったんですが、(2月に行われたセヴァンの上映会のときに)菅野さんがおっしゃっていた地元愛というものをすごく感じることができてよかったです。
会場3
フェイスブックを見て、興味を持って今回初めて参加しました。
そこで質問ですが、この会自体の落としどころ、方向性はどんな感じでしょうか? というのも、僕は被災地にボランティアにも行ったこともないし、被災地の現状もよく分かっていません。だから被災地が大変なんだといわれても、いまいちピンときません。毎日をこなすのに精一杯で。でも、放射能はどうなんだろう?という不安もあります。それで、いろいろ知りたくて来たわけですが……、自分自身が(この会や福島の問題と)どう関わっていったらいいのかわからないし、明日からまた日常に戻ると思うんですけど、じゃあ結局、今日ここに来た意味は何だったんだろう? って分からないままだと思うんです。
どういうことを皆さんがお考えで、日々の生活の中でどのように関わっていったらいいのか。そのためのネットワークなんだろうと想像しているわけですが、今の段階では正直、僕には見えません。
安斎
見えていたら、たぶん、この会はやっていないし、僕もここにはいないでしょう。ほとんどの人が(どうしたらいいのかという正解は)わからないんじゃないかな。福島の人もわからないんですよ。それが放置された状態というのが、日本の現状なんです。
それぞれが選択するしかないんです。今のところ自己判断なんですよね。もう無政府状態ですよ。だから自分でやらなくちゃいけない。
経済活動も大事だよ。でもそれは未来があるからという前提の上であって。それが傷ついてしまっている現状に対して何もしようとしない、それ(未来)を放置した世の中というのは、何のための今なのか、僕にはわかりません。それを話し合う、話し合いたいというのがこの会なんじゃないでしょうか。
落としどころもないし、方向性もそれぞれだし。日々の生活の中で何ができるのかなんていうのは自分で考えて、自分で行動するしかないわけです。情報をとるのもそうだけど、行動もしなくちゃいけない。
菅野
僕もいろいろなところで「何ができるんですか?」と聞かれて、そのたびに答えに窮してしまいます。今、僕が言えること、唯一の答えは「考え続けること」だと思うんです。
大手メディアで、東京の言論者が東北を語ります。僕たち被災地の人間は、その言葉にすごく薄っぺらさを感じています。「植民地としての東北」ということをいった学者がいますが、エネルギーとか、食べ物とか、自動車の部品だったりとか、そういう部分を東北は担ってきました。ところが、こういう事態になって、もういらないと言われている。そもそも東京の従属関係というか、そこに逃げ切れていない東北があったんですよね。東北の人たちは我慢強いから。話すことも慎重です。だから、その声は大手メディアになかなか載ることはありません。だからこそ、僕が話をすることが大事なことだなと。そう思っていろいろなところで話をさせてもらっています。
大手メディアに載らない人の声に耳を澄ましてみると、すごくリアリティがあります。そこに、ヒントがあるんだと思います。
大切なことは、思考停止にならずに、一人ひとりが当事者意識を持って考え続けることです。それが、今の震災をとらえるヒントかなぁと、僕自身は感じています。
荒川
(さきほどの質問に対する意見)このネットワーク自体は、具体的に、何か目標を持って活動をしているわけではありません。そこが(客観的にみて)わかりにくい部分なのかなと思います。みかみさんがやっている「むすびば」のような、具体的に被災地に行ったりとか、人が集まって行動したりとか、はっきりとした目標をもって活動をされている方々がいます。このネットワークでは、そういう目的を持った人たちの動きを把握しながら、絶対にこれはなんとかしなくちゃいけないよねという思いで、そういう部分での(情報発信の)役割を果たしていきたいということで設立しました。私と湯浅さんはともに食育に関わる活動をやっていて、ある会議のときに湯浅さんからの提案でネットワークが動き始めたという経緯があるんですよね。
北海道にいる私たちだからこそ、できることがあると思うんです。特に食の分野で。子どもたちを守るために、北海道の食が重要になるんじゃないか。そのために今、北海道に住むわれわれは何をしなくちゃいけないのか。そういうことをみんなで語り合いながら、実際に被災されている方の意見を踏まえて、それぞれがやっていこうと、こういうわけです。
だからたぶん、なんとなく「もわっ」としているのは正直なところですそのためにいろんなゲストを呼んで、実感したりしながら、北海道をなんとかしなくちゃいけないよねと思っていただけたらすごくいいかな。
湯浅
わたしも農業をやっているから(東北の人たちの気持ちも)分かる部分もあります。今、何かをしようというのも大事ですが、まずは今の状況をみんなで知ることが重要だと思うんです。
そのために「いったいどうしたらいいの?」っていうのをいつも思っていて。今回にしても、「こんなやり方でいいのかな?」って半信半疑だったんですが、今の声を聞いて、「やってよかった!」って確信できました。
聞く場所もない、知る場所もない人たちが、小さな発信をしている場所に聞きに行ける、そんなものがほしかったんですよね。現地に行って支援活動をしている人のようには自分はできないけれども、なにかしたい、そう思っている人たちが、フェイスブックでみたら聞きに来たって。それを聞いたことで、ああ、こういうことを続けていくことによって私たちはいろんな人に、見ること、関心を持つことを伝え続けていけるなって思いました。ありがとうございます。

今宮
僕はメディアの人間です。大手メディアじゃないんですけどね。いつもこういう集会になるとメディアは攻められます。たしかにそうかもしれないんです。僕も作り手側として、安斎さんの話じゃないですが、同じことですよね。お酒を飲むのも同じです。子供には飲ませちゃいけないけど、僕らは飲むんです、大好きだから。たばこだって吸いますよね。放射能もこれからそうかもしれないですよね。
そんな中で、僕らメディアの人間はなにをしていったらいいんだろう、と考えます。僕はフリーランスで、なんでもかんでも自由に作れる立場にはないんですが、作るときにはどこか考えます。そのとおりにできるかどうかは別問題ですけれども。この中には文章を書いている人もいるし、電波に乗っかる方もいらっしゃいます。なにができるんだろう、日々その瞬間、全部考えながら生きていくことはたぶん無理なんですね。僕らもどうしていいかわからなくなる。だから僕はこうした場にきて、メディアがという批判を甘んじて受けようと、いつも思いながら聞いているんですよね。自分はそんなかっこいいことができるかっていったら、なかなかそういうわけにもいかないですけどね。
自分が見聞き知ったことを話し合おうよ。フェイスブックのような場でもいいんです。ネットでもいいですけど、リアルにあって、お互いの顔を見て、表情をみながら、話し合うことがとても大切だと思うんです。
今日は30-40名ですが、そういう規模でいい。もっといえば10人でもいい。そこからそれぞれひろげていけば、どんどん広がっていくんだろうな。そういうFACE TO FACEが、違うんだろうな。って思います。
会場1
昨年6月18日に脱原発のデモに出たんです。ちょうどよさこいソーランの日で、一般の人が大勢いるんですよね。でも、あんまり考えている人がいないように思えましたね。せめて、脱原発のデモだったら札幌ドームをいっぱいにするぐらいじゃないと、マスコミだって書かざるをえないというぐらいにしないと。1000人ぐらいじゃね、小さな扱いですよ。行動をしていかないといけないですよ。私はそう思います。
会場3
みなさんはどういうふうに情報をとっていますか?放射能の話ひとつにしても、両方の意見があってわからないじゃないですか。
安斎
僕はもう情報はとらないようにしています。(震災)当初はツイッターとか、フェイスブックを追っていて、神経質にいろんなものを怖がっていたけど、(放射能を)受け入れざるを得ない現状の中で、これからはどのように暮らしていこうかということに目線を変えながら、情報を選択しています。
あとは、その人の言っていることの裏側ですよね。この人はどこからお金が出ているのか、どういう企業からお金をもらって研究をしているのか、どういう博士なのか、たとえば、チェルノブイリにも行っていないのにチェルノブイリについて語る人とか、そういう人の話は話半分に聞いていますが…。っていうか、全部話半分ですよ(笑) だからこそ、自分がどう生きたいかが重要なんです。でも、こういう対面だったりとか、どういう人かって目で見てわかる状況の場合は、別ですけどね。僕自身は流れてくる情報に関してはあんまり信じていない。
湯浅
私は専門家ではありません。だけど、孫もいっぱいいるので、いっぱい情報を集めます。基本的にうのみにはしないけれど、どんな情報も顔をあわせて直接聞くのが一番ですよね。それはなかなかできないけど。
ただ、ときどき思うんですよね。変だなって思うこと。わからないけれど、いやだな。そういう「感覚」ってあるじゃないですか。わからないけどやだな。そういう「感覚」というのは、私はリスクを回避する方法だと思うんですよ。正しく知ることは大事だけど、情報をとる元になるのは、自分がどうしたら幸せになれるのか、次のためにどう生きるか。そう考えたときの判断ってけっこう当たっているんじゃないか。知識を持って放射能のことを勉強しようとするのは無理がある。環境のこともすごくいろいろなところから聞くけど、さまざまです。でも、変だな、いやだな、そういうものを遠ざけていく、その「感覚」を養うためにこうやっていろんな人の話を聞いたり、話をしていく。それを安斎くんが言っていましたね。「わからないものはやらない」。あ、そうだなって思いました。
会場4
自分の生き物としての直感だとか、命を大切にしようという感覚だとか。それぞれの価値観でいいじゃないかな。みんなこうだとか、安全だから原子力で行こうって言うのと同じですよね。一人ひとりがね。自分の価値観で選択したらいいんだ。
さっき安斎さんが、ベクレルを表示して野菜を売るって聞いたとき、僕、買いに行こうかなって思いました。これから長く生きる人たちに食べさせるんじゃなく、おじさんたちが食べるからって。そう思いました。
いろんな価値観があると思うんですよね。ですからこのネットワークは、考えを一つにしてみんなでそっちに行こう!じゃなくて、それぞれが、自分の生き方だとか、生活態度を見直すきっかけになれば、そんな風に思います。
会場5
いろんな問題がここに来て起きていて、答なんか出ないようなことも多くて、自分ひとりの生き方を見つめても答のでないことばっかりです。人のことを考えるときにも自分の価値観はあるけれども、人のことをどうとは言えないのが現実で。昨年うちの宿のお客さんが、石巻にフロンティアナースに行かれたのをきっかけに、美瑛に55人の方をお迎えするような動きをしたんですね。そのときに、震災後3ヶ月というときに、いろんな思いでみなさん来てくださって。福島が変わっていないように、石巻にも壊れたままの家が点在しているんですね。これをいったい誰がどうするんだろう。このままでいいんだろうか。ビルの中に入ったままの車も、所有者がわからなくて出せない状態。そういうものを目の当たりにしてきました。衝撃的だったのは、仮設住宅に入っている人の自殺がすごく多いとか。それを救おうという動きをされているんですが、それも難しい。でもそんな中で、出会った方たちはすごく喜んでくれて。1対1、顔を見合わせられる相手がいて、抱き合って泣ける相手がいると、人間って救われるかもしれないなと感じたんですね。
「子どもの未来と、食を守るネットワーク」は、原発とか被災者という言葉を入れないで活動していることが重要であるような気がします。みんなが警戒しないで、うまく伝えていくこと。ソフトに伝えないと伝わらないので、そういう団体があることがすごく重要だと思います。
会場6
この1年間は本当にいろんなことがありすぎて。みなさんのお話を聞きながら思うことは、去年の震災というのは、みなさんにとってもそうだと思いますが、自分の生き方を考えなければいけない、そういう機会になったんだろうと思います。今日のお話の中で、安斎さんがラッキーという言葉を使ったのがすごく印象に残ってて。人ってどんな状況でも、いいことをみつけて、いい方向に向かっていく力があるんだということをね、今、わたしたちはそういうことを試されていると思うし、私自身は、去年の3月以前には戻らないし、しっかりこれから考えて生きていくぞっていう。人と人とのちいさなつながりがものすごく大事なんだな。これからそういうつながりが、いろんなことを変えていく力になるんだろうな。そう、思っています。
私たちは、考える力というのを失わされている。生きるか・死ぬかなのに、本能を失っているんじゃないか。危ないか・危なくないか。YES・NOの判断を誰か他人にまかせるという、それもすごく危ないなーって。子どもたちにはそうならないように、教えていこうと思うけれど。

安斎
去年は政府とか行政に対してすごく不信感を抱いたりとか、怒りを感じたりしていた時期もありました。そのときにふと思ったのは、じゃあ、「明日からおまえが総理大臣だ」と言われたとしたら、どういう社会でどういうふうに暮らしたいの?という姿をことこまかにリアルにすべてを言えるのかといったら、自分にはないわけですよ…。要するにイメージもできていないやつが実現できるはずがないと思って、それでそれからは自分がどう生きたいのか、どういうふうに暮らしたいのかということを考えるようにしているんです。だから今は明確にイメージが描けます。自然栽培の野菜を食べたい、食べて暮らしたい。いらんものはいらん。そういう感じで、選んでいきたいなぁと。簡単なんだよね、実は。僕たちの前には選択肢があって、それを選ぶだけ。簡単じゃん。
お金がなくてソーラーパネルを買えなかったら、そこは工夫していろんなものを使って、たとえばフェイスブックに「ソーラーパネルがいらない人はいませんか?」って書いてもいいだろうし、僕らって本来ものすごく自由なはずなのに、その自由がものすごく制限されている。そのこと自体がいやで。もっと、自由であっていいんだって。
会場7
私の子ども、下の子はまだ小学生ですけど、(震災から)1年たった頃にたまたま高学年のクラスで、「原子力とは何か?」という授業をやったそうです。PTAの役員向けにも同じような内容の授業をやったんですけど、終わった後に親たちから「(放射能の問題を)子どもに聞かれてもどう答えていいのかわからないから、全学年でやってください」という意見も出ていました。子どもの未来を考えるときに、親は自分の生活で一生懸命かもしれないけど、子どもが何をみて、何を聞いているのかというのを、見守る必要があるなということを思いながら、そんなことを聞いていました。
会場8
フリージャーナリストの坂本といいます。昨年の事故直後から、特に、警戒区域の中で取材を続けてきました。私自身は警戒区域内の絶望的な状況を前に、それを消化できずに今にいたっているので、今日はみなさんの話をじっと聞こうと思って聞いていました。やはり、ゲストの方が言ったリアリティというのが、社会に伝わっていないのかなというのが、私の実感です。
荒川
ゲストスピーカーの皆さん、ありがとうございました。
昨年この会を立ち上げたときに、こういう話をしました。災害が起きたときにまずは自分たちを助ける「自助」、おたがいに助け合う「共助」、それから公が行う「公助」という、この3つの助け方があるんですけど、実は日本人はどれも忘れている。それをどうやって取り戻すかというと、先ほどもありましたが、生きる力が失われている、助け合う力が希薄になっている、そんなことでこのネットワークがなんらかの役割を果たせるのではないかと思い、この活動を続けてきました。
日本人は熱しやすく、冷めやすい。のどもとすぎればすぐに忘れます。
花巻の話もありましたが、あぁ日本人的だなと思って聞いておりました。毎日意識してというのは無理かもしれませんが、たえずどこかで振り返りながら、生きる力を身につけていく、特に北海道には何かできるという可能性がある。ということでこのネットワークを維持していけたらと思います。
今日は本当にありがとうございました。

カテゴリー: 活動日記
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